ムネモシュネ

記憶とはこんなにも不死

「蒙古斑」ハン・ガン

ハン・ガンにお熱。『菜食主義者』に収められたうちの一篇。表題作とは設定がリンクしている。今作は表題作よりも私に訴えかけるものが少なかった。小説において、言葉で直接表現するべきでないものを、言葉で直接的に表現しすぎているのだ。性的なモチーフ…

「菜食主義者」ハン・ガン

ある日悪夢を見てからというもの一切の肉を口にできなくなった女性が変わっていくさまについて、夫が語るという形式の小説。ある日突然始まる菜食主義は、個人として大切にされてこなかった女性「ヨンヘ」が起こす無言の抵抗だ。 ヨンヘは夢を見る。無言の抵…

『インド倶楽部の謎』有栖川有栖

アリスと火村に、それぞれささやかだが見過ごせない変化があった。まず、『菩提樹荘の殺人』のときと比べて、アリスが火村に焦りを抱かなくなっている。「このどこか危なっかしい男を友として見守っていたい」というアリスの思いにはこれまで焦りが含まれて…

『何があってもおかしくない』エリザベス・ストラウト

アメリカの田舎町で展開される小さな事件と、その後を生きる人々の物語。 人生は「何があってもおかしくない」。何かが起きたあと、人は風のように消えるなんてことはできなくて、霞を食って生きていくこともできなくて、じくじくと疼く生傷やしがらみを抱え…

『わたしの名は赤』オルハン・パムク

『わたしの名は赤』オルハン・パムク/宮下遼訳 ハヤカワepi文庫 以前単行本の和久井訳で読んで挫折した本。文庫に切り替え、最初から読み直してみた。まず文章が美しい。記憶の中の和久井訳ほどではない(と思う)けれど、ゴブラン織の絨毯のように絢爛な文…

『フラジャイル』ぎりぎりの正義

『フラジャイル』草水敏・恵三朗/13巻を読んだ。 今巻もめちゃくちゃ面白い。 人は一体どのようにして、こうした正義の基準を自己の内に養うのだろうと思う。本当に不思議で魅力的だ。 医者サイドの主人公が岸先生なら、製薬会社サイドの主人公は間瀬さん。…

『熊と踊れ』

北国の荒涼とした雪景色そのままを写し取って成長したような三兄弟の心。それがまざまざと見える文体に好感を持った。何かの台本のように一文は短く説明的ですらある。いかにも寒々しく、それがいいのである。三兄弟は、特に長兄のレオは、幼い頃からおのれ…

『ムーン・パレス』ポール・オースター

オースターの評判を聞いて気になっていたので図書館で借りて読んだ。訳は柴田元幸。軽やかな文体。水が流れるような酩酊。酒に飲まれているのに酒臭さがない。この野原の風景を壁に描いた無菌室のような文体はどこから生まれるのだろう。オースターの(ある…

祈りについて

私は少し祈っている。無事に終わりますように、何も変わりませんように、できればよい方向へ進みますようにと。 祈りとは、変えようのない現実を、少しでも心安く受け入れるための行為なのだ。私が幸せという贅沢を願ってしまっているときに涙が出るのは、結…

『あらゆる名前』ジョゼ・サラマーゴ

戸籍管理局に勤める実直な男が主人公の小説。 彼には有名人のプロフィールをスクラップして収集するという趣味がある。 ある日誘惑に負けて禁を犯し、ただ趣味のためだけに有名人の戸籍を覗き見てはその内容を複写するようになる。やがて有名人のみに飽き足…

アンテナを立てられるか

雑学が好きだ。 昨日はイタリア語の語源や派生語の話にときめき、今日は生化学の入門書に萌え萌えする、というように。雑学と読書が好きで、勉強は好きかどうかちょっと分からない、学校は大嫌いだった。文学マニアの端くれとして、面白い本を見つけたらここ…

左手を差し出す

どんなに残酷なことでも、 何かを知りたくなかったと思ったことがない。それは私が「真実はそれ自体が価値あるものだ」「真実を知った自分の悲しみなど、取るに足らないものだ」と考えているからだけど、 (たとえば、「親が自分を愛していない」とは、悲し…

私の持たない美徳

バイトの先輩である山内さんは誰にでも親切なおばさんだ。声は大きく張りがあり、髪は赤っぽく染めている。笑うときには顔の筋肉をめいっぱい使って笑う。不機嫌にしているところなど、きっと誰も見たことがない。その山内さんが休憩中、いつもの笑顔で話し…

このブログについて

新しい日のはじめとはいうもののあしたも歌う記憶の女神ブログ名:「ムネモシュネ」 筆者:絵馬泉(えま いずみ) 空想と過去のスクラップノート、あるいはフィクション混じりの日記として。

なれないからこそ憧れる、とも言う。

憧れるものならいくつでもあった。誰かに憧れることと自分を否定することは、最初から同じことだった。そうしてそれがいつの間にか苦しくなっていた。 やがて私は憧れの人たちのようになることをあきらめた。ああはなれないと分かりきってしまったものにすが…

『アリー/スター誕生』を観た

タイトルの通り映画を観に行った。ネタバレ注意。 天性の歌声をもつけれど町のクラブのいち歌手に埋もれている女性(レディー・ガガ)と、田舎の農場生まれで既に成功したボーカリスト兼ギタリスト(ブラッドリー・クーパー)の、出会いから別れまでの話。 …

バッハと悪癖

クラシック音楽を聞くような家庭に生まれ育ったわけじゃないけれど、バッハの良さについて語ってもいいかい。一言「完璧に美しい」で済むんだけれど、それでは身も蓋もないので、たらたら語ってみる。バッハの美しさって、人間味と神々しさの絶妙な両立にあ…