ムネモシュネ

記憶とはこんなにも不死

「菜食主義者」ハン・ガン

ある日悪夢を見てからというもの一切の肉を口にできなくなった女性が変わっていくさまについて、夫が語るという形式の小説。

ある日突然始まる菜食主義は、個人として大切にされてこなかった女性「ヨンヘ」が起こす無言の抵抗だ。
ヨンヘは夢を見る。無言の抵抗すら許されない肉の塊の列を。弱い己よりなお弱い存在としての肉を。

抵抗が極まった瞬間、とうとう自分が根底から受け入れられないことを悟ったヨンヘは、手首を切り、病院に運ばれ、最後には小鳥の羽をむしってその肉を噛み切り、血をすする。
それはヨンヘが己よりなお弱い存在を見つけ、標的とした瞬間である。弱者が弱者を食い物にする図は、もちろん家父長制と無関係ではない。
(よく機能している家父長制というものの実例を私は知らないが)形骸化した家父長制の下では、弱肉強食が常態と化す。そのオイシイ部分をすすっているチョン(ヨンヘの夫)はひたすらヨンヘへの軽蔑と嫌悪をあらわにしながら滔々と、淡々と語る。彼は、家の外では長時間労働に従事する会社員である。徴兵されるようにして働きに出るチョンと、人として尊重されたことのないヨンヘの間には、恋も愛も情もない。ハン・ガンは、愛情という心の機能がよくはたらかない人の、その内面を書くのが異様に上手い。私はこれが自分とくっつきすぎていて冷静に読めないし、書くこともできない。

あらゆる孤独のうちの、私にフィットする形を探し求めていた。それは硬く、ぎこちない孤独で、自分は凸も凹もないただの四角形だと思う。誰と何を分け合うこともなく、自分を相手に与えることもなければ、相手が自分の一部になることもない。そんな孤独の形をここに見ることができる。ハン・ガンという作家が生み出すものの中に。