ムネモシュネ

記憶とはこんなにも不死

「蒙古斑」ハン・ガン

ハン・ガンにお熱。

菜食主義者』に収められたうちの一篇。表題作とは設定がリンクしている。

今作は表題作よりも私に訴えかけるものが少なかった。小説において、言葉で直接表現するべきでないものを、言葉で直接的に表現しすぎているのだ。

性的なモチーフを私があまり好まないのもあって(特に体に花という表現)、あまり快い読書体験ではなかった。

念のため断っておくが、このブログに書いている読書感想文は、あくまで「個人的な感想」であり、「批評」ではない。

「菜食主義者」ハン・ガン

ある日悪夢を見てからというもの一切の肉を口にできなくなった女性が変わっていくさまについて、夫が語るという形式の小説。

ある日突然始まる菜食主義は、個人として大切にされてこなかった女性「ヨンヘ」が起こす無言の抵抗だ。
ヨンヘは夢を見る。無言の抵抗すら許されない肉の塊の列を。弱い己よりなお弱い存在としての肉を。

抵抗が極まった瞬間、とうとう自分が根底から受け入れられないことを悟ったヨンヘは、手首を切り、病院に運ばれ、最後には小鳥の羽をむしってその肉を噛み切り、血をすする。
それはヨンヘが己よりなお弱い存在を見つけ、標的とした瞬間である。弱者が弱者を食い物にする図は、もちろん家父長制と無関係ではない。
(よく機能している家父長制というものの実例を私は知らないが)形骸化した家父長制の下では、弱肉強食が常態と化す。そのオイシイ部分をすすっているチョン(ヨンヘの夫)はひたすらヨンヘへの軽蔑と嫌悪をあらわにしながら滔々と、淡々と語る。彼は、家の外では長時間労働に従事する会社員である。徴兵されるようにして働きに出るチョンと、人として尊重されたことのないヨンヘの間には、恋も愛も情もない。ハン・ガンは、愛情という心の機能がよくはたらかない人の、その内面を書くのが異様に上手い。私はこれが自分とくっつきすぎていて冷静に読めないし、書くこともできない。

あらゆる孤独のうちの、私にフィットする形を探し求めていた。それは硬く、ぎこちない孤独で、自分は凸も凹もないただの四角形だと思う。誰と何を分け合うこともなく、自分を相手に与えることもなければ、相手が自分の一部になることもない。そんな孤独の形をここに見ることができる。ハン・ガンという作家が生み出すものの中に。

『インド倶楽部の謎』有栖川有栖

アリスと火村に、それぞれささやかだが見過ごせない変化があった。

まず、『菩提樹荘の殺人』のときと比べて、アリスが火村に焦りを抱かなくなっている。「このどこか危なっかしい男を友として見守っていたい」というアリスの思いにはこれまで焦りが含まれていた。自分は土壇場で彼の手を取れないのではないかという焦り。それが、憑き物が落ちたかのようにアリスから消え去っているのだ。物語ラストの、二人で別々に帰路につくことを提案したことがその表れだろう。
そして火村は、以前は無神論の信仰とでも言いたいような、激しい執念を抱いて捜査に当たっていた。(人は死ねば全て無になり、その先はないという論を掲げていたようにも思う。)
それがここに来て「来世があるかどうかは現在の科学では証明できない」と科学的で冷静な態度に転じている。

火村シリーズは江神シリーズと鏡合わせ(作家アリスが江神シリーズを執筆しており、学生アリスが火村シリーズを執筆しているという設定)だったが、今回になって「これまでの事件にはアリスが独自に名前をつけている」という設定が加えられた。『ダリの繭』も『乱鴉の島』も『ロシア紅茶の謎』も、作家アリスがひそかにタイトルをつけているということになったのだ。アリスがそのことを明かしたときの火村の態度は、「つまらなそうな顔をするかと思ったら、火村は真剣な目で私を見返していた」とある。これはつまり物語を司る役割が学生アリスから作家アリスに完全に移ったということではないだろうか。
「火村英生に捧げる犯罪」では、アリスはただそこにいるだけで事件解決の重要なキーとなっており(詳細は読めばわかる)、このタイトルにこう来るか、と興味深かった。

アリスは火村の親友というポジションから物語を司る神へと片足を移した。であればアリスが火村を手放したのも、火村が無神論(とそれに関わるもの全般)への信仰から脱却し、むしろより懐疑的な態度へと変わったのも納得がいく。
アリスは長く真っ直ぐな道を歩くように成長していく。火村は、アリスを盲目的に信頼するということは、きっと永遠にない。

『何があってもおかしくない』エリザベス・ストラウト

アメリカの田舎町で展開される小さな事件と、その後を生きる人々の物語。
人生は「何があってもおかしくない」。何かが起きたあと、人は風のように消えるなんてことはできなくて、霞を食って生きていくこともできなくて、じくじくと疼く生傷やしがらみを抱えたまま、あるいは現実を直視し、あるいは真実から目を逸らして生きていく。その様がアメリカ中西部の長い長い畦道と重なって見える。気が遠くなるほどどこまでも続く茶色の道、土埃、朽ちた看板、白々しいほどの青空。
焦れったいほどゆっくりと、倦怠感を伴って奈落に落ちてゆく、落ち続けてゆく人たちの物語。
舞台となる町は、どんなときも知らん顔で白々と晴れている。

『わたしの名は赤』オルハン・パムク

『わたしの名は赤』オルハン・パムク/宮下遼訳 ハヤカワepi文庫
以前単行本の和久井訳で読んで挫折した本。文庫に切り替え、最初から読み直してみた。

まず文章が美しい。記憶の中の和久井訳ほどではない(と思う)けれど、ゴブラン織の絨毯のように絢爛な文章だ。
文庫のフォントが私の目には好ましい。やかましくないけれど、流麗なフォント。この文章にぴったりだ。

この物語はまるでミステリ小説のように不穏な殺人現場から始まる。下手人は「私が誰か当ててみせよ」と挑発的に語り、大小さまざまなヒントをちりばめてみせたあと、闇へ消える。

くるくると交代する語り手たち。その目まぐるしさが、金角湾を望む街の入り組んだ裏路地へと読者を誘い込む。歴史と文化が重なる街では、語り手も縦横に重なってしゃべりだす。頭上に干された色とりどりの布がはためく。

カラは、シェキュレは、そしてエステルもおじ上も、皆ふしぎな人たちだ。自分自身への誇りをもっている。その誇りの拠るところを疑ったことなどないのだろう。
(登場人物の中では、私は下手人の最初の語りに最も共感を覚えた。彼はその誇りの拠って立つところを恐らくは失った。)

地縁血縁のしがらみには大概うんざりさせられてきた私だが、それでもこの人たちのように魂がどこかに根を下ろしたりはしない。

遊離し、浮遊し、彷徨し、漂泊する魂の物語は、どこで読めるのだろう。
そうして自らの魂に誇りを持てないでいる人たちの物語は。

『フラジャイル』ぎりぎりの正義

『フラジャイル』草水敏・恵三朗/13巻を読んだ。
今巻もめちゃくちゃ面白い。
人は一体どのようにして、こうした正義の基準を自己の内に養うのだろうと思う。本当に不思議で魅力的だ。
医者サイドの主人公が岸先生なら、製薬会社サイドの主人公は間瀬さん。この漫画は正義の基準に攻めていく人物がその話ごとの主人公となるように思う。いつかの宮崎もそうだった。

『熊と踊れ』

北国の荒涼とした雪景色そのままを写し取って成長したような三兄弟の心。それがまざまざと見える文体に好感を持った。何かの台本のように一文は短く説明的ですらある。いかにも寒々しく、それがいいのである。

三兄弟は、特に長兄のレオは、幼い頃からおのれの腕力を磨き、弱肉強食の世界を生きている。
「ナメられないこと」。これは三兄弟にとって非常に重要なことだ。平和な動物園のような所でぬくぬくと暮らす人間ならいざ知らず、この三兄弟は世界と切り結び続けなければならなかったのだ。どことなく『悪童日記』を彷彿とさせる。

冷酷な現実を前にしてかつての幼い彼らが選んだのは祈ることではない、武器を磨き、ほんの少しでもヒエラルキーの上へ登ること。その志向はやがてスウェーデン史上最悪の銀行強盗計画へと発展していく。
弱き者よ、庇護なき弱き者よ。祈る暇があるなら、「熊と踊れ」。