ムネモシュネ

記憶とはこんなにも不死

バッハと悪癖

クラシック音楽を聞くような家庭に生まれ育ったわけじゃないけれど、バッハの良さについて語ってもいいかい。

一言「完璧に美しい」で済むんだけれど、それでは身も蓋もないので、たらたら語ってみる。

バッハの美しさって、人間味と神々しさの絶妙な両立にあるんじゃなかろうか。
私のような人間は、安心して聞ける。

モーツァルトは人間の善いところだけをひたすら見つめていたような人で、最期まで無垢だった。もしくは、そのようであろうと自分を縛りつづけていた。今の私にはそんな風にみえる。
ブルックナーまで行くと人間味はさらさらと流されてしまって、神々しく清らかであるのに間違いはないのだが、人間でありたいと思っている私には少し怖い存在だ。自分のなかにある見たくないものを引きずり出されそうで。そうしてそれを無邪気に肯定してしまいそうで。

ブルックナーは「偏屈な老芸術家」のイメージをそのまま具現化したような性格のおじいちゃんだったらしいのだが、毎日決まった時間に決まったルートで散歩をする習慣があり、時計代わりにご近所のひとに親しまれていた、らしい。
あのような曲を書きながら、ご近所さんに愛される人柄を保ちつづける。それだけでも偉業だという気がする。

私の手元にある唯一のブルックナーは、リッカルド・ムーティ指揮、ベルリンフィル演奏の「ロマンティック」97年のCDだ。
8番や1番もたしか好みに合っていた気がするので、そのうち揃えたい。


バッハに話をもどす。
彼の曲は、ものによって表情が全然違う気がする。
室内用の無伴奏チェロ組曲(とても軽やか)と、どこかの伯爵さんの不眠を癒すために演奏されたというゴールトベルク変奏曲では、そもそも趣がちがって当然かもしれないけども。
私が心底好きなのは無伴奏チェロ組曲、それから「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」、平均律とクラヴィーア、インヴェンションだ。
ゴールトベルク変奏曲は肌に合わなかった。
何かを肯定し傷を癒すのを、私は怖がっているらしい。
というか、そういう匂いのする曲は、いつも避けて通る。だから、そのとき自分に最も必要な曲を、あえて拒んでいることになる。
音楽に限らず、こういう悪癖が私にはある。
何をしたら直るのかなあ。