ムネモシュネ

記憶とはこんなにも不死

『わたしの名は赤』オルハン・パムク

『わたしの名は赤』オルハン・パムク/宮下遼訳 ハヤカワepi文庫
以前単行本の和久井訳で読んで挫折した本。文庫に切り替え、最初から読み直してみた。

まず文章が美しい。記憶の中の和久井訳ほどではない(と思う)けれど、ゴブラン織の絨毯のように絢爛な文章だ。
文庫のフォントが私の目には好ましい。やかましくないけれど、流麗なフォント。この文章にぴったりだ。

この物語はまるでミステリ小説のように不穏な殺人現場から始まる。下手人は「私が誰か当ててみせよ」と挑発的に語り、大小さまざまなヒントをちりばめてみせたあと、闇へ消える。

くるくると交代する語り手たち。その目まぐるしさが、金角湾を望む街の入り組んだ裏路地へと読者を誘い込む。歴史と文化が重なる街では、語り手も縦横に重なってしゃべりだす。頭上に干された色とりどりの布がはためく。

カラは、シェキュレは、そしてエステルもおじ上も、皆ふしぎな人たちだ。自分自身への誇りをもっている。その誇りの拠るところを疑ったことなどないのだろう。
(登場人物の中では、私は下手人の最初の語りに最も共感を覚えた。彼はその誇りの拠って立つところを恐らくは失った。)

地縁血縁のしがらみには大概うんざりさせられてきた私だが、それでもこの人たちのように魂がどこかに根を下ろしたりはしない。

遊離し、浮遊し、彷徨し、漂泊する魂の物語は、どこで読めるのだろう。
そうして自らの魂に誇りを持てないでいる人たちの物語は。